元祖B-BOY・CRAZY-Aがジャパニーズヒップホップ歴史を語る。『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ』に掲載。

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ジャパニーズヒップホップが興隆し、日本語ラップやクラブカルチャーが大きく発展した90年代にスポットを当て、シーンに関わった重要人物たちの証言をもとに、その熱狂を読み解く書籍『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ(仮)』が辰巳出版から11月10日に発売される。

宇多丸、YOU THE ROCK★、Kダブシャイン、DJ MASTERKEY、CRAZY-A、DJ YAS、DJ KENSEI、KAZZROCK、川辺ヒロシといったアーティストが様々な角度から当時のシーンを検証する一冊となっている。

発売に先駆けてインタビューの一部が公開された。80年代より原宿の“ホコ天”でブレイクダンサーとしてキャリアをスタートさせ、日本で初めてのB-BOYとも称されるCRAZY-Aが登場。ヒップホップカルチャーとの出会いから、現在ブームとなっているフリースタイルバトルの礎となったイベント「B BOY PARK」開催の経緯、さらにヒップホップの4大要素が日本でどのように受容されていったのかその一部をDewsを抜粋。

ーーCRAZY-Aさんは、83年10月に『ワイルド・スタイル』が公開されるより少し前に、ヒップホップと出会っているんですよね。

CRAZY-A:俺は同じ年の7月に公開された『フラッシュダンス』っていう映画を観て、ブレイクダンスに興味を持った。その後に『ワイルド・スタイル』や『ビート・ストリート』(84年/ビデオリリース)で、ヒップホップへの理解を深めた感じかな。当時は南千住に住んでいたんだけど、原宿のホコ天に行けばやっている人がいるんじゃないかと思って、見に行ったの。いわゆるブレイクダンスをしている人はいなかったものの、パイオニアの“ディスコロボ”っていうラジカセが道端にポンと置いてあって、ラップっぽい音楽がかかっていた。そこでしばらく待っていたら、チラホラ人が集まってきて、自然と踊るやつも出てきて。そこで仲良くなったやつらと「来週もみんなで踊ろう!」みたいな感じになって、そのうちに俺も自分でラジカセを持っていくようになった。当時のホコ天には竹の子族やローラー族もいて、そのブームの終焉くらいに俺らがダンスを始めた感じで、最初は駅から一番遠いところでやっていたよ。

ーーホコ天ダンス文化の延長として、ブレイクダンスを始めたと。

CRAZY-A:俺の場合はそう。その後、ホコ天にはバンドブームに伴ってバンドが増えてきて、ラジカセだとまったく歯が立たないから、ターンテーブルとか音響機材を持ち込むようになっていった。俺はダンスを始めてすぐにDJもやり始めたんだけど、当時はDJミキサーがなかったから、秋葉原で部品を買ってきて横フェーダーを自作したりして。87~88年くらいには、DJ KRUSHとかもホコ天でやり始めた。

ーー80年代の初期から半ばくらいに、同時多発的にいろんな人がヒップホップを始めたイメージですか?

CRAZY-A:ブレイクダンスに関して、一番早かったのは横浜のFLOOR MASTERSっていうチームの前身となったFUNKY JAMの連中だと思う。俺より年上の浅岡さんっていう方が、ソウルダンスの流れでニューヨークからブレイクダンスを仕入れてきて、おそらく『フラッシュダンス』の前に彼らは始めていた。俺らが組んでいた東京B-BOYSは、FUNKY JAMとよくバトルをしていたね。それから、浜松のAPPLE PYE ALL STARSもかなり早くからやっていたよ。でも、世界中で一斉に始まったのは、やっぱり『フラッシュダンス』と『ワイルド・スタイル』の影響。ちなみにヨーロッパは、公開時期の関係で日本より2年ぐらい遅れていたから、その経験の差で彼らとバトルして負けることはほとんどなかった。85~86年だと、俺らはすでに2~3年やっていたから。そう考えると日本はヒップホップ先進国だよ。DJ機材だって日本製のものが一番良いわけだし。

ーーCRAZY-Aさんは日本初のB-BOYとも称されます。改めて、B-BOYの定義をどう捉えているか教えてくれますか。

CRAZY-A:俺らの頃で言えば、B-BOY=ブレイクダンサーだった。俺自身もホコ天で踊っていたときに、白人の女性から「あなたたちみたいな人を、B-BOYっていうの」って教えてもらって、東京B-BOYSを名乗るようになった。当時はカーティス・ブロウとかはいたけれど、まだラッパーと呼べる人はほとんどいなかったんだよね。Run-D.M.C.が登場する前、MCの時代で、彼らの役割は革靴を履いてジャケットを着て、DJを盛り上げることだった。ブレイクダンサーが花形で、いまみたいにラッパーが前に出ていなかったんだ。その後、グランドマスターDSTのスクラッチを取り入れた、ハービー・ハンコックの「Rockit」(83年)で、ヒップホップDJが脚光を浴びた。ラップも、シュガーヒル・ギャングが79年に「Rapper’s Delight」を流行らせたりしたけれど、本格的に注目されるようになったのは、もう少し後だった。

ーー4大要素がいまみたいに分化していったのは、いつ頃だったのでしょう?

CRAZY-A:86年にRun-D.M.C.がエアロスミスの楽曲をモチーフにした「Walk This Way」でブレイクして、みんながラップもやり始めた後、4大要素のひとつひとつが成熟していった80年代後半くらいから徐々に分かれていったんだと思う。俺らの場合はダンスから始めて、4大要素のすべてに触れたけれど、Run-D.M.C.に影響を受けてラップから始めた人は、そのままラップだけを追求していくみたいな感覚だったんじゃないかな。その頃からブレイクビーツも、ラップ用の遅めのトラックと、踊る用の早めのトラックに分かれてきた感じだと思う。RHYMESTERが99年に「「B」の定義」(『リスペクト』収録)で俺をフィーチャリングに迎えてくれたのは、改めて4大要素があってのヒップホップだということを示そうとした部分もあったんじゃない。

引用 : http://zasshi.news.yahoo.co.jp

私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ(仮)
出版社名 : 辰巳出版
発売予定日 : 2016年11月10日
【構成予定案】
第1章 Jポップシーンに現れ始めた『日本語ラップ』
第2章 白熱するアンダーグラウンドシーン
第3章 ジャパニーズヒップホップのルーツ
第4章 DJ・クラブカルチャーの波及
第5章 アナログに刻まれた音源
第6章 ジャパニーズヒップホップとメディア
第7章 90年代から新世代へ

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