「BBOY PARK」の仕掛け人 CRAZY-Aスペシャルインタビュー

日本のヒップホップ第一世代であり、「BBOY PARK」の主催など日本のヒップホップ発展に多大な貢献をもたらしたBBOY CRAZY-A。「BBOY PARK」最終回を記念してインタビューを敢行。レジェンドが語るヒップホップとは。

1997年に「TOKYO B-BOY’S Anniversary」の名で始動し、一年に一度、ダンサー、ラッパー、DJ、グラフィティライターたちが代々木公園に集結するヒップホップパーティ「BBOY PARK」。

今年は20周年ということで、8月18-20日の3日間に渡って東京・代々木公園で無料開催されヒップホップヘッズ達を賑わしているようだ。
そしてそんな「BBOY PARK」が20年の歴史を経て、今年で閉幕するという。
今回Dewsでは、ラップバトル、ダンスバトルと様々な歴史を刻んできた伝統的イベントが最後の開催ということで、その仕掛人であるCRAZY-Aにインタビューを敢行。
「BBOY PARK」の歴史や裏話をはじめ、「BBOY PARK」への想いやヒップホップ論などを語り、ヒップホップに携わる者なら必見の内容となった。

日本最初のBBOY CRAZY-A

STAFF
本日は、Dewsのインタビューという事で、よろしくお願い致します。
まず、Dews自体は10代の子とかも結構多いのでCRAZY-Aさんという方がどういう方なのかっていうのを簡単に自己紹介をいただきたいです。

CRAZY-A
はい。CRAZY-A、BBOYです。

STAFF
BBOY歴としては、どれくらいなんですか?

CRAZY-A
1983年から始めたので、34年。
今は、やってはいないですけどね・・・やってますけど。

一同
(笑)。

CRAZY-A
そんな練習する程はやってない、気が向けばやる位かな。
あとは、プロデューサーなのかな?括弧自称ですけど(笑)。

STAFF
現在、ご年齢はおいくつになるんですか?

CRAZY-A
55歳です。
孫が3人。

STAFF
お孫さんもいらっしゃるんですか?

CRAZY-A
はい。孫が3人なんだけど、去年また(自分の子どもが)もう1人産まれて(笑)。

STAFF
娘さん?息子さん?

CRAZY-A
娘ばっかりで、息子ができるまで頑張ろうかなと。

STAFF
BBOYができるまですかね?

CRAZY-A
そうだね(笑)。BBOYができるまで。
クレイジーな活動を心がけてます。

BBOY PARKを作った理由

STAFF
「BBOY PARK」はそもそもどういうきっかけで始めたんですか?

CRAZY-A
1983年の頃から歩行者天国、原宿のホコ天があった頃に日曜日になると踊り始めてたんですよね。
それが1996年あたりにはいなくなったんですよ。
それでじゃぁ年に1回やろうかみたいな、結構最初は軽いノリで。
当時、34(歳)位になってたのかな?
じゃあちょっと合法的に場所を借りて年に1回やろうかというのが始まりだったかな。

STAFF
それが1997年って事ですよね?

CRAZY-A
うん、1回目は1997年だね。
最初は「Tokyo B-BOY’S ANNIVERSARY」っていうタイトルで。

STAFF
その時点でもうTokyo B-BOY’Sは、15周年なんですね。

CRAZY-A
数えたら14年だったんだけどね。
まぁ15年目だねー。みたいなあんまり考えてない(笑)。
勝手に15周年ってつけちゃったんだよ。

STAFF
1996年というと当時のシーン的にはもう”New jack swing”がはいってきてますね。

CRAZY-A
良い所に気がついたね。

STAFF
当時のBBOYシーンの盛り上がりはどうでしたか?

CRAZY-A
BBOYシーンというのが90年代入ったあたりで、ほとんどBBOYはいなくなっちゃったのね。
“New jack swing”が入ってきたせいで、”時代遅れだ”的な風潮になっちゃったの世の中が。
ブレイクダンスをやってるっていう事がもう恥ずかしい位。

STAFF
イケてないみたいな?

CRAZY-A
そうそう。
“いつまでそんな事をやってるんだ”って言う位の時代になった時があったんだよね。
まぁ俺はその時”ZOO”とかBBOY引退して夜遊びしてて、そっちをやってたんだけどもDMCっていうDJの大会きっかけで、”Rock Steady Crew”っていう名前をつけた”キューバート”とかの連中が日本に来たんですよ。
それの付き添いでCRAZY LEGSがついてきて、その時初めて話が出来たんだけど・・・それが1995年位だったかな。

STAFF
最初に会ったのは日本で会ったって事ですか?

CRAZY-A
そう。日本で初めて話す事ができて。
いわばRock Steadyヲタクじゃないけど、もうそれしか俺等は資料がなかったから。
“フラッシュダンス”、”ワイルドスタイル”は知り尽くしてたわけね。
まぁそんな話でLEGSと盛り上がって、ヒップホップの話をした時に、今の”New jack swing”とかそういう新しいヒップホップのダンスだ。って言われてるけど、やっぱり本物のヒップホップダンスはブレイクダンスだから、もう1回それを盛り上げていかなきゃいけない。みたいな事をLEGSから聞いたわけなんですよ。
俺もずっと同じ事を思ってて、それで死んでいたシーンを盛り上げるような感じで”Rock Steady Crew Japan”を立ち上げた。

当時、一応若手もいて、創価大学にダンス部があるんですけどそこでブレイクダンスをやってる奴等だったり。
それが後々のRock Steady Crew Japanになる奴等なんだけど、時代的には時代遅れだからあんまりやってる人はいなかった。
その大学のサークルの何人かを誘って、フレイバーとかRock Steadyスタイルだとかを教え込んで。
で、そういう所から1983年の俺がRock Steadyを見て憧れたように次の世代がRock Steady Crew Japanを見て憧れてくれるようになればな。と思って作って復活させたというか。
まぁそのRock Steadyという名前を使って俺らがやった事によって、眠ってた奴等がまた一気に出てきたんですよ。それでまた盛り上がってきた。
元々、日本の方が流行りだしたのがはやかったから、そのタイミングでヨーロッパでも流行ってた。

STAFF
最初に流行りだしたタイミングですか?

CRAZY-A
そう。”ワイルドスタイル”公開が日本の方が先だったりとか、多分情報が日本の方がはやかったんだ。
日本は結構最初の方で盛り上がって、落ちたあたりでヨーロッパの方が盛り上がってたというか。

STAFF
1980年代後半ですかね?

CRAZY-A
なのかな?
そこで新しいパワームーブが出てきたんですよ、エアートラックスとか。
そこでまたタイミング良く火がついたというか、新しい技も出たし、フレッシュ感がいくつかあったんだよね。

STAFF
エアートラックスってヨーロッパ発信なんですね。

CRAZY-A
あれはね、完成させたのはBENNYだね。

STAFF
発信はアメリカじゃないんですね。

CRAZY-A
アメリカではないんですよ。
元々はニューヨークのリズム、ステップ系、スタイル系ですよね。
そこからLAがパワームーブで、スケーターがヘルメットかぶって一緒にやったりとか。
パワームーブがLAで流行って、それで結構盛り上がって、80年代終わりにまた1回なくなった。
そのあとヨーロッパのスタイリッシュ系な、アメリカンじゃないテイストがあるじゃん?
ちょっとオシャレというか、こうヨーロッパ風味のね、そういうスタイルがでてきて、それで結構幅が広がったんだよね。
だから、あういう技もあるんだ。こういう技もあるんだ。って広がって第2次ブレイクダンスブームみたいな感じになってきたかな。

STAFF
確かに、「BBOY PARK」、「Battle Of The Year」だったりも90年代後半はすごく盛り上がっていた印象があります。

CRAZY-A
うん。だからヨーロッパ勢がバーッと出てきたから、眠ってた日本人もバーッと出てきた。
でもまだその時点では大人がやってたんですよ。

なもんで、「BBOY PARK」はなるべく若い子達にやらせたかったから、最初から10代バトルにこだわってた。
まぁ大人のバトルは結構あちこちであったしお金にもなったからね。
だけど、世界とやりあっていくには子どもの時からやらないと勝てないから、そういう環境づくりをしていった。っていうのかな。

まぁ元々ホコ天でやってた時も俺も歳が上だったから。機材持ってったりとか。
場所をつくるっていう役割だったんだよね。

こないだ20歳になった2番目の娘がいるんだけどその子が産まれた時に「BBOY PARK」を始めたんだよね。
自分の子どもとBBOYの子ども達を育てていこう。みたいな気持ちはすごくあったかな。
それがやっぱ20年って最初に思ってた理由というか、20歳までは育てよう。っていう気持ちでやってたかな。

STAFF
では、「BBOY PARK」は最初から20年と決めていたんですか?

CRAZY-A
まあなんとなくは。
子どもが産まれた時に、ストリートでどうやって子どもを食わしていこうか。とかいろいろと考えた。
それまではクラブでね、BBOY NIGHTとかいろいろやったんだけども、どんどん若手も育ってくるから、クラブでイベントをやる奴も増えてくる。
だからそこでもやっぱり野外イベント、まぁホコ天でやってたっていう事もあるけど、本当のストリートで金にしていけないかな。みたいな考えもあった。
ストリートでホコ天で育った俺がどうやってストリートで、子どもを食わしていこうかな。っていうのはすごく強く思ってたね。

STAFF
お金になるって意味では、ホコ天時代は、その場でお金をもらったりとかそういうのはあったんですか?

CRAZY-A
たまにあったね。酔っ払った気前のいい親父とか。

STAFF
なるほど(笑)。

CRAZY-A
まあお金ください。って出してるわけじゃないからさ。
出せば入れてくれたかもしれないけどね。
まぁそういう事ではなかったんで。
例えば、大晦日とかになるとね、若手の奴等が駅前の所で帽子出してストリートで小遣い稼いだりはしてたよ。

STAFF
それ(お金稼ぎ)が目的っていう意味ではなかったんですね。
本当に衝動的でみんなで集まって踊ろうみたいな。

CRAZY-A
そうだね。
腹減ったなー。金ねーし、ストリートでもやる?みたいなそういうノリだった(笑)。
で、何千円か集まったら、牛丼食えるね。みたいなそういうノリではやってたね。

STAFF
すごく素敵な青春ですね。
そうして始まった「BBOY PARK」って事ですね。
ラップバトル自体は最初からあったんですか?

CRAZY-A
ううん。1999年から。
MCバトル、ラップに関してなんだけど、俺はBBOYから入ったんだけど、踊るためにはどんな音楽なんだろうとか、そこからずっとヒップホップの世界に入っていって、4つの要素を遊びとしてみんなやってたわけですよね。
ダンスは1番得意だけども、ターンテーブルも、はやいうちから女に買わせたりして。

一同
(笑)。

CRAZY-A
基本的に俺を支えてきたのは女だから。

STAFF
感謝ですね。

CRAZY-A
ダメな男を支えるには常に女がいるっていう所だと思うんですよね。

一同
(笑)。

MCバトルについて

STAFF
話を戻しまして、ではラップバトルが後なんですね。
ラップバトルも「BBOY PARK」を印象づけたイメージはありますよね。

CRAZY-A
俺等がやり始めた頃は、Run-DMCとかLL・Cool Jとかよりも前だからラッパーっていうのがいなくて。
まぁディスコチックなラッパー達はレコードを出してたんだけど、まだラッパーじゃなくてMCの時代だよね。
DJの単なる盛り上げ役っていう時代だった。
でも日本人達はそこから入ってったわけじゃないんですよね。
ラッパーを見てラップを始めてると思うから、俺的には認めてなかった。
BBOYの俺としてはMCとして認めてなくて、日本語だから時間はかかるな。と思ってたけども。

それで1999年の時に、フリースタイルを日本語でやってる奴がすごく出てきたんですよ。
FG CREW(FUNKY GRAMMAR UNIT)だったりキンちゃん(MELLOW YELLOW)とかがパーティで即興でラップしていて、だんだんみんながやるようになってきて。
その中でもKREVAが結構上手かったのね。
それを見てたんで、MCもバトルができるんじゃないか。みたいな提案をZeebraにして、Zeebra達も即興でやってるような感じじゃなかった頃なんだけど、とりあえずラップできる奴を何人か集めて、何かやってみようと。

STAFF
ラップバトルは、今でこそ当たり前に流行っていますが、当時はかなり手探りだったんですね。
それって成立したんですか?

CRAZY-A
まぁやった事はなかったんだけど俺はBBOYバトルとかでバトルの定義とかは分かってたからそれをMCでやればいいだけの事だから。
今後続く奴等のためにちょっとお手本でやってみよう。みたいな。それが1999年。
だからみんな初めての事だったから、即興でやる奴もいれば、ちょっとネタ仕込んできた奴もいたよ。
まあ結果ね、20年以上やって完成したからね。

STAFF
大ブームですからね。

CRAZY-A
やっと完成したな。っていうのは思うね。
あっちは自分達の生活の中にラップがあって、、例えば誰かの悪口を言ったりとかあるけど日本にはなかったからね。
だから海外と似たような事ができるまではちょっと大変だったけど、ただそれができるようになってくれないと、本物じゃないんだよね。
日本のヒップホップが本物になれなかったから、俺は絶対やってほしかったし、まぁ結果できるようになったからよかったんだけど。

STAFF
今のラップバトルはものすごくレベルが高いですもんね。

CRAZY-A
しかも日本語は難しいからね。
明らかに英語よりたくさん踏んでるしだからやっぱり日本人すげーな。って思う。
本当のヒップホッパーができたよね、日本でも、日本語でも。

やっぱりヒップホップってすごいなー。って思うんだよね。
アフリカ・バンバータ(Afrika Bambaataa)が言ったように、人種とかそういうの関係ないってヒップホップは。
すべての人ができるカルチャーなんだ。っていう事を彼が言ってくれたおかげで自信を持って今までやってこれたというか。

かなり勉強させられたよねヒップホップにも。
遊んでるうちに教えてくれるというか・・・。
勉強が好きなタイプじゃなかったから、遊んで勉強ができるっていうこの感じが素晴らしいね。

今は、ダンススクールだとかスクール形式でどんどん広まっちゃって習い事みたいになってるもんね。
本当はお金のかかるモノじゃないし、、お金をとるべきなのかな。っていう思いもある。
まぁお金を絡めないと経済が動かないし、すごく難しい問題なんだけどね。

だからヒップホップをずーっと考えていくと、やっぱりお金っていう問題にあたるよね最終的に。
運営に関してもそうだし、、人は動くんだけどお金も動かさないと成立しないからそこが一番悩みましたね、「BBOY PARK」は。

要は企業スポンサーとかにお金を出してもらって、できなくはないんですよ普通にやれば。
けど、ヒップホップとは?って30年以上考えてたんだけど、何がリアルだ。何が真実だ。とかこだわってくるのよ。
世の中を見ていくと、結局銀行側がね勝手にお金を刷って・・・まぁ勝手に刷ってるわけじゃん(笑)?

STAFF
まぁ言ってしまえば・・・。

CRAZY-A
そういう世の中にいるんだなー。って。
日本は植民地にはされなかったけども、結局お金っていうシステムの中に入れられてお金がないと生きていけない世界をいつの間にか作られちゃっててさ。
結局はまぁ奴隷だよね。
黒人達はそういう意識がすごく高いから、ラップでもそういう事を言ってると思うんだけど、日本のリアルなMC達が、子どもの時から韻踏めるようになって技を持ったんだから、これからはやっぱり大人になったらその武器を使って、そういう所と戦っていってほしいというか、それが本当のヒップホップなんだろうし。
やっぱ弱い奴等の味方で。弱者の味方であってほしいよヒップホップ。

俺もダンスからはいって、ジャズダンスとかバレエとかそういう決まった枠じゃないダンスがストリートダンスでしょ?
今のストリートダンスはもうストリートダンスっていう枠になっちゃってる。だからストリートではないんだよね。
ブレイキンはブレイキンってジャンルが確立されて、他にもロックダンスだったりポッピンだったり、もうそれがダンスの名前だから。

ストリートって意味は道端っていう意味だけじゃなくて、どこにもはいらない雑種みたいなさ。
名前がついてないダンスの事をストリートダンスって呼ぶだろうし。

なんかストリートダンスっていうスクールもどうなのかなって(笑)。
学校で教えるわけでしょ?
なんでそんなストリートっていう悪い事を。

STAFF
確かにそうですよね。

CRAZY-Aにとってのヒップホップ

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