元祖B-BOY・CRAZY-Aがジャパニーズヒップホップ歴史を語る。『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ』に掲載。
ーー80年代の初期から半ばくらいに、同時多発的にいろんな人がヒップホップを始めたイメージですか?
CRAZY-A:ブレイクダンスに関して、一番早かったのは横浜のFLOOR MASTERSっていうチームの前身となったFUNKY JAMの連中だと思う。俺より年上の浅岡さんっていう方が、ソウルダンスの流れでニューヨークからブレイクダンスを仕入れてきて、おそらく『フラッシュダンス』の前に彼らは始めていた。俺らが組んでいた東京B-BOYSは、FUNKY JAMとよくバトルをしていたね。それから、浜松のAPPLE PYE ALL STARSもかなり早くからやっていたよ。でも、世界中で一斉に始まったのは、やっぱり『フラッシュダンス』と『ワイルド・スタイル』の影響。ちなみにヨーロッパは、公開時期の関係で日本より2年ぐらい遅れていたから、その経験の差で彼らとバトルして負けることはほとんどなかった。85~86年だと、俺らはすでに2~3年やっていたから。そう考えると日本はヒップホップ先進国だよ。DJ機材だって日本製のものが一番良いわけだし。
ーーCRAZY-Aさんは日本初のB-BOYとも称されます。改めて、B-BOYの定義をどう捉えているか教えてくれますか。
CRAZY-A:俺らの頃で言えば、B-BOY=ブレイクダンサーだった。俺自身もホコ天で踊っていたときに、白人の女性から「あなたたちみたいな人を、B-BOYっていうの」って教えてもらって、東京B-BOYSを名乗るようになった。当時はカーティス・ブロウとかはいたけれど、まだラッパーと呼べる人はほとんどいなかったんだよね。Run-D.M.C.が登場する前、MCの時代で、彼らの役割は革靴を履いてジャケットを着て、DJを盛り上げることだった。ブレイクダンサーが花形で、いまみたいにラッパーが前に出ていなかったんだ。その後、グランドマスターDSTのスクラッチを取り入れた、ハービー・ハンコックの「Rockit」(83年)で、ヒップホップDJが脚光を浴びた。ラップも、シュガーヒル・ギャングが79年に「Rapper’s Delight」を流行らせたりしたけれど、本格的に注目されるようになったのは、もう少し後だった。
ーー4大要素がいまみたいに分化していったのは、いつ頃だったのでしょう?
CRAZY-A:86年にRun-D.M.C.がエアロスミスの楽曲をモチーフにした「Walk This Way」でブレイクして、みんながラップもやり始めた後、4大要素のひとつひとつが成熟していった80年代後半くらいから徐々に分かれていったんだと思う。俺らの場合はダンスから始めて、4大要素のすべてに触れたけれど、Run-D.M.C.に影響を受けてラップから始めた人は、そのままラップだけを追求していくみたいな感覚だったんじゃないかな。その頃からブレイクビーツも、ラップ用の遅めのトラックと、踊る用の早めのトラックに分かれてきた感じだと思う。RHYMESTERが99年に「「B」の定義」(『リスペクト』収録)で俺をフィーチャリングに迎えてくれたのは、改めて4大要素があってのヒップホップだということを示そうとした部分もあったんじゃない。
