【Dewspeak vol.03】日本BBOYスタイルの拡張に大きく貢献する九州のBBOY kouske

90年代初期、地元福岡にて頭角を現し、その後1999年にWASEDA BREAKERSへ加入。
「Battle Of The Year」をはじめ、2004年に初開催された「Red Bull Bc One」 では日本人として初めて招聘されるなど、数々の世界の舞台で活躍した超重要人物の一人bboy kouske。
その独特すぎるとも言えるスタイルは日本中、いや世界のBBOYにまでも影響を与え、日本人BBOYのスタイルの拡張に大きく貢献。
WASEDA BREAKERS脱退後、九州に拠点を戻した現在もその影響力は絶大的。直近では日本・名古屋で行われた「Red Bull Bc One World Final 2016」 では世界のレジェンドBBOY達と肩を並べジャッジを務める。
時は同じく90年代初期に九州にてダンスを始めたTAKUYA(SYMBOL-ISM)がkouskeの歴史、ダンス観、そして九州のダンスシーンの1ページを紐解く。

TAKUYA
まずkouskeが「何で僕なんですか」みたいな返事をくれた答えから。
このコンテンツは自分が思うストリートダンスにおいての重要な側面を持っている様々な世代の人と話してみたくて。色んな世代から見えてくる風景というか歴史感もあると思ってて。

dewspeak-kousuke-19

あとはkouskeは東京も経験してるんだけど、勿論地元、拠点は九州で。で東京だけじゃなく九州やその他でもその土地土地ならではの、歴史感だったりヒストリーがやっぱあるなって俺は思ってて。そういう東京以外の人とそろそろ話してみたかったってのもあって。
で、尚且つkouskeの踊りとかHIPHOPに対する現役感・・・今尚、進化というか、まだ試し続けているものを感じるし、それは行動、踊り、思想、全てのアプローチに対して勝手に感じてるっていうところで、kouskeの今まで見てきたその歴史と現在の考え方と聞けたらなと。
あ、あと俺のルーツでもあるんだよね九州は。まあ俺は14歳くらいから始めたから4、5年くらいしかダンサーとしては過ごしてないけど、やっぱりここから始まって。別にノスタルジーに浸るわけではないんだけど、ああ、ああいうことがあって今の俺らはあるよね、みたいな。

kouske
いやあ、、、そうですね。光栄です。

TAKUYA
ちなみにKouskeは俺との付き合い実はめっちゃ長いもんね。最初会ったの俺16とか?

kouske
そうですね!えっとですね、僕TAKUYAさんの誕生日はっきりわからないんですけども、TAKUYAさんは16歳で、僕15歳。

TAKUYA
23年前(笑)! kouskeはダンス始めたのがそれくらい?

kouske
僕が初めてダンスに興味を持ったのが小学校。
ダンスっていうもの、踊りに対してちゃんと興味を持った、自分から掴みに行きたいって思ったのは小学校4年生のときなんです。

TAKUYA
めっちゃ早いね。

kouske
で、小学校4年生の時に興味を持って・・・その後にダンス甲子園があって。で、その、その前後にマイケルジャクソン。で、自分がストリートダンサーって意識するようになったのが高校に入ってからです。

TAKUYA
じゃあちょうど出会った頃だね。福岡の中央公園だね。

kouske
そうですね。
中央公園の人達を、自分で探し出して。それまで僕、ストリートダンサーっていう人達と触れ合うまでに一人ぼっちの時間が5~6年くらいあるんですよ。で、高校がこっちの方やったから、天神の方に出てこれるようになって、そこでストリートファッションみたいな人達を街中で捕まえて、声かけて、「ダンスしてる人知らないですか?」って探し回ったんですよ一日中。それで中央公園にダンサーがいるってことが判明して。もうロールプレイングゲームの世界です。はっきり言って、街で情報収集・・・。

TAKUYA
凄いね。。けどそういう時代だったよね。俺は大分だったけどやっぱり福岡行ったら中央公園には誰かいるみたいな話聞いて、たぶん一回目か二回目か行った時にはもうkouskeいたのよ。

kouske
ただ自分的には中央公園でTAKUYAさんに会った時にはもう既にTAKUYAさんの事知っていまして。僕が初めてダンスコンテストを見に行ったのがちょうどそれくらいの頃なんすけど、そこで優勝したのがTAKUYAさん達だったんですよ。

TAKUYA
あ、ほんと?

kouske
熊本の三井グリーンランドでの。優勝しましたよね。あの時が僕ダンスコンテスト見たの初めてです。

TAKUYA
俺がヘッドスピンしてるやつね(笑)。

kouske
そうです。
それで僕の福岡の先輩方が出るってなって、僕ついて行かせてもらったんですよ。その当時福岡には、インペリアルJB`sの所謂大人の人達、つまりブレイクダンス第一世代の方々以外でヘッドスピンやってるような若者なんてほんとにいなかったじゃないですか。で、そのコンテストを見た時に若者がやってるんですよ、しかもあの時二本(二人同時に)立ててるんですよヘッドスピンを。で、TAKUYAさんは、あの時、既にエッグに落としてましたよね?

TAKUYA
(笑)。

kouske
その時僕の先輩KIYOさん(Extra House/21.5 / WASEDA BREAKERS)達はもうTAKUYAさん達と友達になってて。で、聞いたら自分の一個上と聞いて、びっくりして。。で俺その帰りそのまま練習しにいったんですよ。
「これはまずい」って焦って。

TAKUYA
なるほど・・・。そっか、それは嬉しいね。
まさかのkouskeへのインタビューで俺の歴史を語ってくれるなんて(笑)。

90年代初期の福岡ダンスシーン

TAKUYA
そのコンテストでいうと九州の重要な人達大集合だったね。俺は大分でダンス始めて外の人沢山見たのもあれ位の時期からだったから印象深いね。ジャッジにはBE BOP CREW、インペリアルJB’sの方々と蒼々たる面子。あと例えばブレイキングやってて名前を聞いてたのが3℃とか、ROXY LOCK JAMとか,九州の90年代初期BREAKER的なね。

kouske
福岡でその頃インペリアルJB`sさんを除いた若者、まあ自分達の世代に近い中で、ブレイキングに主体を置いてやってたのが3℃の人達でしたね。
しかし改めて当時そういう噂が他地域まで行くって凄いですよね。ネットなんて全くない時代に。今だったらニューヨークの街角でやってたって話をいくらでも聞けるわけで、でそれを聞きながらそうだったんだっていうことはできますけど実際あの当時、まあNYとは違って殺し合いの代わりにとかいうレベルまではないですけど、、。けど噂を聞いて福岡中央公園で言えばあんな広い公園の一つの街灯の下で知らない人同士が県外から集まり、しかもものすごい剣幕でって、、。

TAKUYA
来たぞ!みたいな。で、たいした挨拶も交わさずね(笑)。

kouske
もうそれまでの努力の成果をそこで全てぶつけ合うっていうことをやってるわけですよ。そのストリートな事実はやっぱりその、オリジナルのニューヨークでそういう話があるように、僕も外国の人達にこういう話はぜひ知ってもらいたいし、またこういう事が日本全国で確実にあったでしょうね。各地方の都道府県で何かのジャンル一人とか二人のレベルからで行われてたはずで・・・だから今思うとやっぱああいう時間がだんだんそういうNYみたいなストーリーになっていく。

TAKUYA
今みたいにバトル大会がないからもうクラブの中でね、チラ見したら新しいことやってる!で何となく自然にバトルして、みたいなので切磋琢磨していくしかない。あ、そういう集まってたっていう場所で言えば覚えてんのは、ラボシータ。

kouske
いやもうその話はね、今日したくてしょうがなかった。

TAKUYA
ね。あそこでニュースクールもオールドスクールも色んなイベントを俺は体感して、なんかこう重要な場所。
それはただの昔話にならないくらい重要な人達がいっぱいいたというか。例えばやっぱ俺が記憶に残っているのはKUNITOMOさん(WORLD SOUL / さんぴんチョコレーツ)。

kouske
いや僕もね、今同じ事を今考えてた。ラボシータで見たKUNITOMOさん、あの時もコンテストでしたよね。ちなみにあのコンテストもTAKUYAさん三位ですよね。

TAKUYA
よく知ってるね(笑)。凄いな、D SUMMIT!
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D’Summit Dance Contest 95

kouske
あの時僕は、その・・・あの頃はもうこれは時効?・・・まあクラブに行けたじゃないですか僕らの歳で。15歳くらいでクラブ行って、入っていきなり、なんか宙に浮いて、でも確実にブレイクダンスではないフワフワした踊りをずっとやってる人がいて、で、しかも人だかりができてるんですよ。
何だこの人!ってホントにビックリしたのが、後に聞いたらKUNITOMOさんだったんです。で、あれはハウスダンスっていうんだよってその時初めてハウスダンスっていうのを知ったんですよ。で、その時のゲストが、それこそBE BOP CREWさん、インペリアルJB`sさん合同でやられてたんです、で一人だけ知らなかった人がそこに入って一緒にショーやってて、それがKUNITOMOさんなんですよ。それが最初で最後なんですよKUNITOMOさんを生で見れたのは。

TAKUYA
あ、そうなんだ。もう衝撃だよね。九州では俺らの世代ではみんな見て衝撃を受けてるよね。でやっぱニューヨークでもそのあとBrian GreenやSHAN.Sと日本人として初めて現地で一緒に踊っていて話題になってるしね。その同時期に見た東京のハウスの方々とはまたちょっと違う・・なんかこう、独特な日本人ぽいフレイバーがいい意味であるというか。。

kouske
あれって違うやり方のブレイクダンス、そのエレクトリックブギって当時呼ばれていた踊りの変形というか、、進化版みたいに見えたんですよ。で、ハウスダンスっていう言葉は聞いたことあるけどそれがどういうものかっていうのははっきりとは全く理解してなかったから。でも僕が福岡で育ってダンスに触れてよかったっていうのはそういうところですよね。で、そういう人がいきなりインペリアルJB`sさんだったりBE BOP CREWさんと一緒にショーしているのを見れて。

TAKUYA
多分あの当時九州のニュースクールとオールドスクールの人達はそんなに深く交流はない時期だよね。その時にあの共演は、まあ唯一KUNITOMOさんがだけど、たぶんすごくシーンにとっても貴重な出来事だった気がしたし、あの後直ぐにニューヨークに行っちゃうんだよね確か。
ちなみにあの人だけじゃなくてあの一派というか、さんぴんチョコレーツのメンバーやFAMILYの人達も凄い独自の感性をあったように記憶してて。その他にも福岡は小倉の方々、県外の人達見たのもあそこ。あのラボシータって場所は面白かったなって。それこそMisfitsを生で見たのもあそこが初めて。

kouske
そうですね。あとはBOBBYさん(JSB UNDERGROUND / オヤジェン)とYUKIさん(SOUND CREAM STEPPERS)も。

TAKUYA
KOJIさん(ROOTS)やMARKさん(ZOO)も見れたのもあそこで。

kouske
しかもまたあのクラブ・・・あの頃まだかろうじてディスコが福岡にあって、九州、まあ大分もそうですよね。ディスコと呼ばれる所謂煌びやかなものがまだあったりという時代の中、あのラボシータって場所は正にクラブですよね。

TAKUYA
廃墟。怪しすぎた(笑)。

kouske
そうラブホテル街で。

TAKUYA
あれが何というか、かっこいいと思っちゃったよね。装飾をなくしたタバコか、いやまあ何の煙かもう解らない(笑)そんな中、輪っか作って、ぎりぎり見えるか見えないかくらいの中で、みんなが踊りまくってんのが、俺は衝撃だったなって。

kouske
正直僕は15歳とかでアンダーグラウンドって言葉は聞いたことあるにはあったんですが、それが、なんなのかよく解らず。クラブシーンだとかストリートダンスシーンだとか、何のことかよくわからないですよね。でも後々考えたらああ、あれは確かにアンだーグラウンドっていうものだった。けど、あの時は何にもわかんなかった、自然に触れることができて、それは有難い。

kouskeに影響を与えた数々のインスピレーションソース

TAKUYA
kouskeは何というかその後だんだんとある意味九州らしからぬ独自のスタイルになっていくわけじゃん。
まあ言い方ちょっと語弊があったらあれなんだけれど。もともとはパワームーヴもガンガンやってるタイプで。どちらかというとオーセンティックなブレイカーだったと思うんだよね。そこからのどういう影響下で変わっていったのかなと。

kouske
これはどこから話せばいいんだろう、、てなるんですけど。やっぱ結局はBE BOP CREWさんとかインペリアルJB`Sさんを見てこうなってるんですよね。っていうのは、僕が所謂あの時代に新しいスタイルのブレイキングに見えていたとしたら、やっぱりあの人達がそういうことじゃないですか。あの方々も元々ブレイカーの時代があって、その前にディスコダンス・ソウルダンスの時代があって、で、僕がBE BOP CREWさん見たときはもう既にフリースタイルとして成り立ってて。BE-BOPだったりハウスは勿論取り入れてて。

TAKUYA
俺もBE BOP CREWのイメージはフリースタイルのクルー。

kouske
はい、スーツ着て。決して笑わない、ロックダンス踊る時も。。で曲もカンタループとか使って。

TAKUYA
ロックダンスのツールを使った、フリースタイルみたいなね。アシッドジャズのイメージも強い。あの時代のニュースクールダンスとの混ぜ方も絶妙で、日本人独自のスタイルを作ったってイメージ。今見ても凄いよね。

kouske
で個人的には間に一瞬入るブレイキングフォーム。確実にやってきた人のフォーム!ただ取り入れているだけじゃなく。でそういうのをやっぱ自然に見てきたし、いろんなビデオや情報も僕は個人的に手に入れることになるんですけどやっぱり、下地にはBE BOP CREWの姿、インペリアルJB`sの姿。インペリアルJB`sさんも当時、やっぱファッションとかで言ってもニュースクールでしたもんね思いっきり。新しいものを混ぜようと。でそのMARIOさんにしてもKIDさんにしてもそうなんですけど全然ジャージとか着てないんですよね。GUESSのダボダボのトレーナーにNIKEのダイヤモンドターフとか履いて。曲もQ BERTたちがDirt Styleっていうレーベルから出してたバトルブレイクスなんですけど、まあそれでミックさんが二枚使いでブレイキングするっていう。

TAKUYA
MCリンダさんがRAPして!

kouske
凄い記憶(笑)。RAP 英語でしたね。で、まあそういうのが福岡にもう既に自然にあったから、それで僕もブレイキングでそういうのを表現しようと。。
それは要するに一要素だったんです。僕はやっぱりパワームーブもやりたかったし当時は。ただ途中でダンスは結局、全部一緒っていうか、なるほど全部一緒なんだこれはって思って。で、そうこうしているうちに次なる転機となるGHETTO ORIGINAL PRODUCTIONSを見ることになるんですよ。

GHETTO ORIGINAL PRODUCTIONS DANCE COMPANY

kouske
あれを見た時に凄いシンプルで、だけどメッセージというか主張もめちゃくちゃ入ってるし、けど演技とかも入ってなくて。まあまあ音源としてのセリフは入ってましたけれど特にセリフとかもなく。で、その時にBREAKERでなく「B-Boying」って言葉を僕初めて知るんですけど。で、その中にヘッドスピンが一回しか入ってこない!クイックステップのあの時にウインドミルからヘッドスピン。その他 今の時代では普通の話だけどあの当時ホント衝撃でした。

TAKUYA
ホントそうだったね。

kouske
なんというか、あれ見て思うのは、結局、今は目の前の相手を倒そうとする・・・倒すためのダンスをみんな必死に練習してると思うんですね。バトルに出るから。でも、結局あの舞台で解ったのは、立ち向かってる相手ってもっと大きなものなんです。システムに立ち向かってる。で、それに対してアップロッキングして、あの映像って。それが凄い感動的だったんですよ。アップロックっていう動き一つにしても、もっともっと深い、深い文化があるみたいですけど、僕らは当時、威嚇するっていうだけしか知らなかった。
じゃなくって、あれは、もっとこう、世間の矛盾に対して使う動きなんだっていうのをあの映像で知って。だから決して相手を倒すための踊りではないというか。

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GHETTO ORIGINAL PRODUCTIONS DANCE COMPANY

TAKUYA
衝撃だよね。なんか、あ、ブレイキングの捉え方が全然違ったわっていう。もっと人を驚かせる為のツールに最初は感じてたっていうか。けど、違うんだ。ダンスだし、カルチャーだし、みたいなね。その中で発展していった一つでしかないなーヘッドスピンは、ウインドミルはっていうことに気付けたよね。あの映像は転換期だよね。

kouske
たぶん日本全体がそれこそダンス甲子園だったりその他のメディア、ダンスダンスダンスとかがあってからその所謂当時のダンスブームがもう完全に忘れ去られた所謂氷河期の話ですよ。

TAKUYA
そのダンスブームの時は良くも悪くもその技が・・しょうがないんだけどフォーカスされすぎたっていうかね。だからその前のトップロックって動きとか、それこそアップロックとか。そういう部分に田舎にいる俺らには着目できなかったよね。

kouske
ホントそうですよ。正直な話それは、オマケ、ぐらいの。

kouske独自のスタイルの形成のキッカケ

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