【前編】「Dewspeak」第一弾は日本にHIPHOPカルチャーを根付かせた超重要人物 BBOY CHINO!TAKUYAが独自の目線で切り込む!

ちゃんねるず、80’s〜90’s ニュースクールダンサー時代

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TAKUYA
さらに話は続いて、80年代後期に突如「ちゃんねるず」というチームが出てくるのですが、
そもそもCHINOさんが当時ニュースクールシーンに入っていった背景というのを伺いたいです。

CHINO
さっきも言ったとおり、自分がBBOYとしてやっていた事がある種世界を見下ろしてしまっている事実を知ってしまって(笑)、こんなんで世界を獲れちゃったんだって思ってしまって。
あとは、ダンスを仕事にしていく上で、BBOY扱いされてしまうとそのパートしか出れなかったりっていう現実的な部分もあったかな。
そのタイミングでニュースクールブームっていうのがきて、そういったものが重なって燃え尽き症候群が出ちゃった感じだね。

そんな時にランニングマンとかニュージャックスウィングとかが出てきて、これだったら泥臭いし黒っぽいし、立ち踊りの仕事も出来るようになるという一つの手立てとしても考えたわけ。

TAKUYA
そもそも「ちゃんねるず」の名前の由来って何なんですか?

CHINO
とんねるずとシャネルズが好きで、CHANELも好きだったんだよね。
それで、なんか捻れないかって話になって。
ブレイクダンスって回るじゃない?
けどもはやちゃんねるず自体はBBOYじゃないけどやはり少しだけ回る要素も入れたいよねって話をして、テレビのチャンネルを回すっていいう意味合いも加えてちゃんねるずになったんだ。

TAKUYA
おー、初めて聞きました!
ちなみにちゃんねるずというチームのコンセプトはニュースクールっていう意識はしっかりあったんですか?

CHINO
勿論!その時はBBOYは封印してたんだよね。
好きだからこそ封印しないとダメだと思ってた。

TAKUYA
ちゃんねるずで活動していた時は、おいくつの時ですか?

CHINO
ちゃんねるずは20歳からだね。

TAKUYA
これは自分の見え方ですけど。
ニュースクールのCHINOさんを見ていて、LAのスキームチーム(SCHEME TEAM)のカメレオンからの影響は色濃く見えていました。その辺のお話も聞かせて頂きたいです。

CHINO
カメレオンには勿論影響を受けたね。これまでに自分に影響を与えた人っていうのはROCK STEADY CREWだったり自分らが素材にしてきたもの全てと、ニュースクールの中では、ロバートとロマイのクロスカラーズダンサーズ(CROSS COLOURS DANCERS)やカメレオンのSchem Team。あの辺はすごい影響を受けたよね。

TAKUYA
カメレオンは自分から見たらかなりイカれていて、何というか「オーセンティックなブレイキングは元々出来るのかな?この人」みたいな、崩しに入っているのかいきなりあそこなのかなっていう風に見ていたんですが、CHINOさんにはどう見えてましたか?

CHINO
できてたと思うよ。崩しの方だと思う。
ちゃんと話したことはないけど、カメレオンを初めて見た時は、同じ育ち方しているなって思ったんだよね。共感するっていう。
RAP MANIAでディバインスタイラー(Divine Styler)のライブでタイヤ転がしてるやつとか、全部含めてなんかこいつら生き方が一緒だなって感じがした。コピーとかはしていないけど、彼らからの影響は大きいね。

TAKUYA
それ聞けて嬉しいです。
あとは、ちゃんねるずを見ていて、ナイスアンドスムース(Nice & Smooth)のバックダンサーとかをやっていたIBMダンサーズとかもっと昔の映像で言うとLindy Hopとかああいったアクロバットの匂いもしたんですけど、参考元っていうのはどこなんですか?

CHINO
ナイスアンドスムースのバックダンサーだったりっていうのは、全部後々知るんだよね。
ただCMだったりPVだったり何かしらで2秒写ったとかそういうので認識はしていて、コピーするのではなくて、「こういうのやってもいいんだ」という確認はしていたかな。

ネタ集めに関しては、俺は「ザッツ・エンタテインメント」だったりを見たりしてダンスに纏わるもの全てを取り入れていた。
一方、相方のKOJIは頭がいいので、お笑いから何からエンタメ全てを見ていて、つまりは俺のダンス追求心とKOJIの大きいエンタメの考えが一つになったのが「ちゃんねるず」なんだ。

TAKUYA
確かにダンス力とエンタメ力が備わったパフォーマンスでしたよね。
あとは同時期で言うと「SLAM G」についても聞きたいです。
あのチームはダンス甲子園のために組んだんですか?

CHINO
そうだね。
ニュースクールで面白いダンスやろうねっていう話の中で、SLAM Gのメンバーの宮地君とかとクラブで遊んだりしていたんだよね。
気が合う奴らで集まって、チームというよりも遊びが膨らんでって、打ち解けていったっていう。
俺たちは既に「ダンスダンスダンス」でちゃんねるずとして活躍していたんだけど、その当時、SLAM Gが「ダンス甲子園」に出ていて、宮地君とTAKE-Gの二人でやっていたんだけど、二人だと少ないから助っ人に来てくれないかと頼まれたんだよね。
ただ俺らもう「ダンスダンスダンス」にも出ちゃってるから後ろのほうで帽子を深く被って余りバレないようにして助っ人として出ようみたいな。

TAKUYA
ではあの時のダンス甲子園では所謂「目立とう!」ていう気はなかったんですか?

CHINO
そうそう。本当に助っ人って感じ。
踊りはガッツリ踊っちゃってたんだけどなるべく宮地君とTAKE-Gを先頭に立てて。
でもそれを言うんだったらちゃんねるずもそうだよ。
顔を黒くするのはマジで顔を隠すっていうのがあったからね(笑)。

TAKUYA
全然隠れてないですけどね(笑)。

CHINO
その時にKOJIが言ってたんだけど、正体はダンス業界の奴らにしか解らないし、一般の人は、面白い奴らが出てきたと話題になると思うからこれでいこうって、一つのエンタメとして捉えていたんだよね。
勿論ダンサーにはバレるし審査員とか笑っていっているんだけどね(笑)
ただ、とにかく自分たちが売れようっていう事よりもダンス業界って面白いんだぜって事を世に広めるのに必死だったんだよね。

ショーケースの革新

TAKUYA
音を繋いだりのエディットが後にダンスコンテストやショーで定着していった一つのきっかけはちゃんねるずだと個人的には思うんですよね。
その後様々なコンテストやショーで出てきたお笑い要素を入れたパフォーマンスっていうのは、もしかしたらちゃんねるずが最初かもしれないですよね。

CHINO
うん、絶対そうだよ。

TAKUYA
ためらいなく断言しましたね(笑)。

CHINO
僕ら以外に誰もいないじゃん(笑)。
ロバートとかのショーで、セクシーダンスみたいにやるやつ見たことない?

TAKUYA
あります。

CHINO
あのセクシーダンスの部分が俺達からするとギャグにしか見えなかったのよ。
あれを俺らはギャグと捉えて、で自分達なりに変化させたんだよね。

TAKUYA
ちゃんねるずは本当に伝説的エディット満載でしたよね。「巨人の星」使ったり、競馬の中継みたいな音声を踊り終わった直後に「優勝は確定です!」みたいの入れたり。

あの「優勝は確定です!」ネタのコンテストでは実際優勝したんですか?

CHINO
そこは優勝した(笑)。

TAKUYA
あとは、今でこそよくあるパターンの一つですが、効果音とかで叩いて操ってみたいな。ああいったエディティングのやり方とかは、CRAZY Aさんの影響は大きいですか?

CHINO
勿論そうだね。CRAZY Aさんがラップと曲を作ってたからね。
俺らはHIPHOPの4大要素を全部出来ないとヒップホッパーじゃないと思っていたから出来て当たり前だったんだよね。
その当時はCRAZY Aさんが大人だったから色んな機材を持っていて、それを駆使して曲を編集していたんだ。

一大ダンスブームとメディア

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TAKUYA
あの当時80年代後期から90年代にかけてのTV「ダンス・ダンスダンス」、「DADA」、「ダンス甲子園」等は社会的にも過去類を見ない一大ダンスブームだったと思うのですが、それらはそれ以前から踊られていたCHINOさんから見てダンス業界的にチャンスと捉えていましたか?

CHINO
俺的にはチャンスだったね。

TAKUYA
つまりそれら番組に出ていった理由としては先述したエディット等を駆使したエンタメの要素とダンスの本質を織り交ぜてストリートダンスを広めようという気持ちだったのですか?

CHINO
こんな手立てがヒップホップにはあるんだよっていう提案だよね。
勝ち負けとかではなく、この物凄い文化をテレビという電波にのっけたら、業界の人とか誰かセンスのいい奴らが気付くんじゃないかなって思ってた。

とにかく全てはダンス業界の為だったよね。
俺達以外にダンス業界の為を思ってやっている人は少なかった。だから当時10代なのに大人の様に頭でっかちだったし、俺達がやらなきゃやる人はいないと思ってたから、
とにかく常にヒップホップ業界を社会の大人達に凄い文化なんですよって伝えないとダメな存在だと思っていたからずっとその想いでやってきたね。

TAKUYA
ちなみにその当時、日本中の所謂著名ダンサーの事は知っていたんですか?

CHINO
大概知ってる。

TAKUYA
今みたいにネットなどもない時代にどうやって知り得たのでしょうか?

CHINO
必ず各地に大人がいるんだよね。
東京だったらCRAZY A、大阪だったらマシーン原田さんとか。 その大人たちが遠征に行ったりして、例えば「日本で最初にロックダンスやった人だぜ」とか「こいつが初めてストロボやったんだ」とか立ち踊りの情報まで噂が広まるんだよね。
じゃあこっちは「1990で宙に浮いたっていうことにしようぜ!」みたいな(笑)。
そういうので上手い奴は知られていくわけよ。それで実際に九州行った時にはYOSHIBOWさんがいて、SEIJIさんがいてそれで繋がっていって、大概のその土地の大御所の人は当時でも解ってくるんだよね。
それにその当時は正にダンスブームでテレビ局がダンサー呼べるお金があったから「ダンスダンスダンス」とかでも一緒になれたしね。

TAKUYA
これも気になっていたんですが、第三回目のダンス甲子園でインペリアル(IMPERIAL)が優勝するじゃないですか?
現場にSLAM G、つまりCHINOさんもいて、その時インペリアルのMARIOさんがヘッドスピンのエッグを開発しましたみたいにTVでは言っているんですよね。勿論中学生の自分はそれを見てただただ驚いたのですが。。
けれど後に知っていくと既にダンスシーンではエッグはあったと思いますしCHINOさんもエッグをやっていましたし、これは見方の問題にもなりますが、もっとレベルの高いとも言える事もやっていたと思うんですよね。自分も後から調べて時系列的におかしいぞって事に気付いたのですが。
あの当時TVでのああいった形での広まり方についてぶっちゃけどう思っていましたか?

CHINO
もはやそれはどうでもよかった(笑)もうバリバリやって一回飽きてやめてたくらいだし(笑)。
ただ冷めていたというよりは、あの時はBBOYというカテゴライズとかダンス業界とかっていうのに自分らがいるのが嫌になっていた時期だったかな。
ダンス業界を広めていきたい反面、そういう広め方じゃないっていう自分らがいて、けどダンス業界でもやっていかないと広められないから、半ば嫌々その場にいるような感覚だったかもしれない。
だからぶっちゃけ「どうぞご勝手にその中でやってて下さい」という風に思っていたかもね。

TAKUYA
インペリアルの方々は、世代的には後輩に当たりますか?

CHINO
MARIOとかは同世代かな。

TAKUYA
既にMARIOさんもダンスシーンでは有名だったんですよね?ダンス甲子園は今のラップで言う「高校生ラップ選手権」と同じで高校生限定のコンテンツですよね。ただMARIOさんは高校生ではなかったですよね?CHINOさんも高校生じゃなかったんですか?

CHINO
うん、20歳くらいだった(笑)。

TAKUYA
(笑)。
つまり本格派のダンサーはほぼ高校生では無かったという事ですか?

CHINO
いや、いたにはいたよ。田中傑幸とか、LL BROTHERSも弟は高校生だったね。
チームに誰かしら高校生がいてそれに付随して20歳とかもいたりって感じかな。


後編は、90’s BBOYシーンから、音楽との関わりやCHINO氏の今後についてさらに深掘りした内容をお届け!
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_AYT7951 TAKUYA (SYMBOL-ISM / worcle co.,ltd)

90年代初頭ストリートダンスに触れ、様々なジャンルを模索、横断する。
その後ダンスチームSYMBOL-ISMを結成。ハウスを基盤にしつつも様々なスタイル、音楽性を
反映させた独自のスタイルを形成し、DANCE DELIGHT、DANCE@LIVE、JUSTE DEBOUTをはじめとする
様々なコンテストにて優勝、入賞多数、その他様々なステージを通し強烈なインパクトを残す。
そのスタイルは彼の拠点東京・代々木に因んで「代々木系」とも呼ばれる現象を起こし、
ダンスのスタイルのみならず音楽、ファッション、ライフスタイル、、様々な切り口からあらゆるヘッズに影響を与えている。
またダンスプレイヤーと並行し2004年に起業。レンタルスタジオの先駆けとなったstudio worcleをはじめイベントスペースANCE、その他音楽バーshirokumaやレコードレーベルyygrec、セレクトショップCONTE-NU、等、これまでに無かったダンスやカルチャーに直結するコンセプチュアルなスペースやビジネスアイディアを数々生み出しダンサーのライフスタイルを変革させ続けているキーパーソンとしてもシーンに大きな影響力を持つ。

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