【ダンスク編集長コラム】思い出のダンス部〜登美丘高校編「バブリーダンス誕生前夜」
取材しないでください!
大阪の岸和田・波切ホールでは、3月に地元のライオンズクラブや久米田高校が中心なって、関西の学校中心にダンス部コンテストが行なわれている。
当時は、関西のダンス部のレベルが全国的にも圧倒していたので、夏への前哨戦的にこの大会を取材するのが楽しみだったのだが、この日に登美丘の「ダンシングヒーロー」も初披露されるのだという。
控え室で取材の打ち合わせをしていると、スタッフさんから「登美丘が取材をしてほしくない」という伝言を受ける。
通常であれば、コンテストの取材規制は主催者が決めるべきであり、いち出場者の要望が通ることはないのだが、夏の大会へ向けて作品の内容をなるべく漏らしたくないのだという。
結局、主催者も私もそれに同意したが、ここでも登美丘の「本気」は相当なものだと感じさせた。
大会はやはりレベルの高い作品ばかりだったが、中でも登美丘の「ダンシングヒーロー」は他を圧倒していた。
先日の廊下で見た際は練習着だったが、彼女たちの本気は衣装や細かい演出にも現われていた
1980年代バブル期のディスコを席巻していたボディコンスーツ、前髪を逆立てたワンレンやソバージュヘア、デカすぎる携帯電話、「しもしも〜」などの平野ノラ的逆さ言葉などなどの小ネタも満載の上、ダンス自体もインパクト大。
1980年アイドル的な振り付け、激しい出ハケとフォーメーション、徹底した表情管理、ビヨーンと伸びてクルクル回る動きなどなど、情報処理できない密度とスピード感で矢継ぎ早に振り付けが展開される。エアロビ〜おばちゃんと来た登美丘ダンスが、問答無用の完成形に到達したような鮮烈な印象を受ける。
「あまり基礎力のない代で、女の子らしい部員が多かった」というメンバーの個性を逆手にとって作られた振り付けと構成、そしてセンターを担うキャプテン(のちの伊原六花)の存在感が華やかさを加えている。
当然ぶっちぎりの優勝。その時のレポート記事も、優勝チームの写真がないという奇妙なものになったが、現場での盛り上がりは凄かった。とにかく作品のあとの拍手喝采がすごいのだ。コンテストでの作品の比べ合いの範疇には入らない、一級のエンターテイメントを見たという笑顔と喜びが観客の顔には溢れていた。
「でも、まだまだですね」
と、大会後に話したakaneコーチはまだ仕上がりに満足していないようで、夏に向けての決意を固めていた。
akaneコーチの変態的天才性と登美丘のポテンシャルは、自分の想像をはるかに超えていた。
先日の取材での自分の感想が間違いだったことを実感しつつ、「これは、今年3連覇ありうるな」と実感しながら岸和田の地を離れる。
優勝の可能性は充分にある。ただ、その時はまだ、この作品が「バブリーダンス」となり、社会的な旋風を巻き起こすとは、誰も予想していなかったのだ…。
▲2017年3月19日、岸和田の地からバブリー伝説は始まった。
バブリーダンスの奇跡
実は「バブリーダンス」はダンススタジアムでは優勝していない。
2017年に優勝したのは、王者・同志社香里で、登美丘は惜しくも準優勝。
その後のDCCでは優勝を果たすが、「バブリーダンス」旋風を起こすきっかけは、その後の自主制作動画だった。
n地元のディスコを借り切り、ほぼ1日でakaneコーチがセグウェイに乗りながら撮影したと言うこの動画は、現在1億2,000万回再生 ! 日本国民1人が1回は見た換算になる。
登美丘高校ダンス部は数々のメディアに出演し、年末には紅白歌合戦に出場。
キャプテンは伊原六花として芸能界デビューし人気女優に、akaneコーチは売れっ子振付師となり、数々の公演や大阪万博サポーター、「謎の制服おかっぱ集団」アヴァンギャルディをプロデュース。
2018年取材時。当時高校3年生の伊原六花にはすでにオーラが。akaneコーチはこの後、世界的プロデューサーに。
8年経った今でも、バブリーダンスを超える世間的インパクトとエンタメ性を持ったダンス部作品は現われていない。
すべては、あの寒空の廊下から始まったのだ。
数々の縁や運命が絡み合い、誰もが予想しない未来が開けた。
すべては、あの廊下での汗と笑いと「本気」から、世界が変わっていったのだ。



