【後編】「Dewspeak」第一弾は日本にHIPHOPカルチャーを根付かせた超重要人物 BBOY CHINO!TAKUYAが独自の目線で切り込む!

世界最高峰のBBOY、HIPHOP集団「ROCK STEADY CREW」日本支部のメンバーとして日本にHIPHOPカルチャーを根付かせた超重要人物、レジェンドBBOY CHINO。彼のBBOYとしての数々の功績は勿論の事ながら今や伝説となったニュースクールダンサー時代「ちゃんねるず」や彼独自のダンススタイルを構成する様々な要素にTAKUYA(SYMBOL-ISM)が鋭く迫る。BBOYでなくとも全ダンサー、全表現者必見の内容!
後編は、90’s BBOYシーンから、音楽との関わりやCHINO氏の今後について。

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90’s BBOYシーン、ROCK STEADY CREW JAPAN

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TAKUYA
ちゃんねるず、SLAM Gを経てその後再びBBOYとして復活を果たしますが、1992年の本家ROCK STEADY CREW NYの復活とタイミング的に近かったですよね。
本家にあわせて復活したとかはあるんですか?

CHINO
本家が復活したのが1992年。それで俺らは1993年にROCK STEADY CREW JAPANになるんだけど、1993年の時まで復活したって知らないのよ。
ネットもそこまで普及してないからね。
ちょうどその少し前にCRAZY LEGSがROCK STEADY CREW DJ’Sを連れて来日した事があって。
そこで当時の俺らからしたら「ヤベえ!CRAZY LEGSきてるぞ」って話になって、まずホテルに行って土下座して「有難うございます!」て言いに行ったんだよね。
ダンスにのめり込んだのも彼らのおかげだからそれが伝えたくて。

TAKUYA
え!?ってことはその当時、CRAZY LEGSはCHINOさん達のこと知らないんですか?
80年代に知り合ってないんですか?

CHINO
うん、知り合ってない。

TAKUYA
衝撃的です。

CHINO
だってさ、俺が踊り始めた頃、1ドル250円とかだよ?
中学生が行ける訳がないんだよ(笑)。
その当時にOHJIさんとかSAMさんとかはニューヨークに行ってガッツリ見ているわけだよね。
SAMさんがニューヨークから帰ってきて、俺を見た時に「お前みたいな奴は日本にいちゃ駄目だ、お前みたいな奴はニューヨークにいないからあっちで全員潰してこい。お前にはその力があるから」って言ってくれて。
嬉しかったけど、ブレイキング熱が冷めちゃったきっかけでもあるんだよね。

話は戻って、CRAZY LEGSに感謝を伝えたんだけど、やっぱり会ったら踊りをみせたくなるじゃない。

TAKUYA
けどその時90年代初期というと正にちゃんねるず時代で、つまりはブレイキンを封印してやってないんですよね?

CHINO
そうなんだけど、JIVEというのがあって。

TAKUYA
JIVE!90年代初期こぞってこのキーワード使われていましたね!そもそもなんですけどJIVEとかJIVERとかってどこからの言葉なんですか?

CHINO
まあLAのダンサー達が多分言っていて日本でも大人のダンサー達が使ってた言葉じゃないかな。俺たちはまだ20歳位だからよく解からず使ってたよ。
リズムにはめてアクロバットとかシフト、ドンキーとかをやっていくのがJIVERだったのかな。

話を戻すと、CRAZY LEGSが滞在している一週間で KOJI(ちゃんねるず)とブレイキングの感を取り戻す為に物凄く練習したんだ。
ニュージャックが残っていて、「ヤベー16ビート入っちゃう!」みたいな(笑)。
それで最後の5日間くらいはCRAZY LEGSに頼み込んで、見せようとしてたんだけど、「まあ日本人がダサい踊りをするんだろう」くらいで中々見てくれないのよ。

何回も頼み込んで、やっとクラブに一緒に行けた時に、DJに「Jimmy Castor Bunch / It’s Just Begun」とかかけてもらって、そこでガッツリ踊ってアピールしてたんだ。
でLEGSは最初は普通に飲んでたんだけど、途中から俺らを見て「何なんだお前らは!」って衝撃を受けたらしく、俺とCRAZY AとKOJIでホテルに招かれて「お前らみたいなのが日本にいたとは思わなかった。ROCK STEADY CREWの意思をちゃんと継いでくれる人間だ。」と言ってくれたんだよね。
そこからまたBBOYを世界、日本に広めようと、ROCK STEADY CREW JAPANとして活動し始めたんだ。それも文化の為、BBOYの為、HIPHOPの為、こんな素晴らしいものを衰退させてはいけないというのがあったから、ちゃんねるずも全部やめてこっちに戻ったんだよね。

TAKUYA
そこからのCHINOさんのBBOYのスタイルですが80年代の頃のスタイルとは大分違っていた気がするんですよね。
ニュージャックスウィングのノリが混ざってたりとか、その他BEBOP等様々なスタイルが混ぜられているように見えて。本家ROCK STEADY CREWのスタイルの伝統的な部分は受け継ぎつつもそれとはまた全然違うスタイルを創造していた気がするんですけど、その辺についてはどうでしょうか?

CHINO
それはまさに仰るとおりで、80年代のBBOYをそのままやってもしょうがないと思ったの。
日本で培ったやり方と素晴らしさを世界に広めていかなきゃいけないと思ったから、ニュージャックスウィングだったりBEBOPだったりの要素も入っているし、ダンス全てをエンタメとして受けとめてやってきた自分がいるから、それをブレイキングにプラスして日本へ、世界へと発信していかないといけないと思っていたんだ。
あとはBGIRLが少なかったから、女の子でも受け入れられるようにっていうのも考えてた。80年代は一回男臭すぎてポシャったのもあるからね。
それを逆にニューヨークの奴らに見せたらMR WIGGLESとかも面白いって言ってくれて、逆にこっち側から提案してそれを受け入れてくれて、世界中に広まっていってたって感じかな。

音楽的BBOYの先駆的存在

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TAKUYA
一つ聞きたかったのが、90年代初中期のROCK STEADY CREW JAPANは勿論バトルも凄いのですが、ショーケースにも衝撃が色々と細かくあって、

まず選曲について聞いてみたいんですけど、ジェイムスメイソン(James Mason)やハービーハンコック(Herbie Hancock)等の名曲や、中でも一番衝撃なのは、フレンズ・フロム・リオ(FRIENDS FROM RIO)というBBOY NIGHTの最終回で使ったブラジルのバンドの音源なんですけど、BRASILとかJAZZやFUSION等ヒップホップ以前のルーツミュージックを多用していたイメージがあるんですよね。

今でこそ、ネタモノじゃないですけどヒップホップの人もそういう音楽を当たり前のように聞くようになったのですが、当時はBRASILとかJAZZとかにはまだまだダンサーはアンテナを張っていない時代で。自分はそれを通して知っちゃった部分もあるんですよね。
あとは加えてその時期の雑誌のインタビューでCHINOさんが「ボサノヴァ」って言葉を出しているんですよね。「ボサノヴァすらヒップホップなんだよ」みたいな。
その時にボサノヴァ?ってなったんです。

ここからは僕の仮説なんですけど、その当時CHINOさんはメジャーバンド「THE BOOM」の仕事とかに関わっていて、THE BOOMって結構ブラジル的な音楽もやっていて、そこでインスピレーションや知識を得たのかどうなのかっていう。

CHINO
まさにその通り!ただそれが全部ではなくて一理あるというか。
自分の中で踊る音楽をヒップホップにしなきゃいけないっていうのは90年代初頭で終わってるんだよね。ヒップホップダンサーがヒップホップを使わなきゃいけないって、それだと枠が限られていて取っ払いたかったんだよね。

そもそも俺は小学低学年の時から音楽が好きで、歌謡曲やディスコソング聞いたりバラード聞いたりが好きで、それプラスアルファでヒップホップも好きになったから、その中にボサノヴァも入っていた。TVザ・ベストテンとかに出ていたSUGARって三人組の女の子のウェディングベルとかはボサノヴァだった。

そういうのを調べていくうちに中学生で音楽マニアになっていったんだよね。松任谷由実さんとか山下達郎さんとか大瀧詠一さんとか、もう俺のバイブルだね。
達郎さんなんか海外でものすごいサンプリングされてるしね。

TAKUYA
今となってはそれもヒップホップのカルチャーに入ってますもんね。
そこの音楽の共通点に気付くのが早かったっていうことですね。

CHINO
うん、そういう意味でいうとTHE BOOMの宮沢和史さんとかと話す時は確認に近い感じだったよね。
それ以外にも色々なメディアの仕事もやっていたから、ミュージシャンとも沢山話すし、あの当時はどうしても範囲が狭まっちゃうからダンス業界の人と話すのが嫌だったんだよね。
例えばミュージシャンだったら音楽の歴史は長いから何周も流行ったり廃れていったりを経験しているわけじゃん?それで勉強させてもらったり話をするのが好きで。
そういうのも含めてショーケースに現れてたと思うよ。
だから当時は誰もついてこれなかったかもね。
センスが良い奴しか「何だこれ?!」ってならなかったんだ。他の所謂ブレイカーは「もっとガッツリ回ったりしてくれよ」っていう風に思っていただろうね。
自分からするとメロディに合わせるのなんか当然の話しで、コード進行すらダンサーは解からなかったからね。

TAKUYA
そういったCHINOさんの拘り等の考え方はROCK STEADY CREW JAPANの他のメンバーの人達は理解出来てたんですか?

CHINO
とにかく皆に教えていたよ。とにかくやってくれって。
他のメンバーは少し世代が下だから、ガッツリとブレイキングやりたかったのかもしれないけど、俺がショーに出る時だけは俺に合わせてもらってた(笑)。

TAKUYA
確かにCHINOさんがいないときのショーはガッツリヒップホップでしたよね。
しかしながら他のメンバーの人達一人一人とってもすごい才能が集まっていたように見えました。KATSUさんはじめ、MITSUさんやSARUさんもかなり繊細なリズムを繰り出すBBOYであり、更に言うとあんなにシルエットを細かく追求した人達は、なかなかいないですよね。
いわゆる男臭いブレイキングのシーンでは受け辛かったかもしれないですが。しかし見る人が見たら「ヤバイ!」って思わせる拘り抜いた踊りというか。
きっと先述したNAOYAさんあたりのイズムなんですかね。

CHINO
そうだね。
もうワインで言ったら80年代物のシルエットだよね。

TAKUYA
けれどそういった細かい部分をも理解し、パワームーヴもバンバン織り交ぜるCHINOさんに総合的に驚愕していましたね。
最近海外でCHINOさんとかをSNS等で取り上げているBBOYいるじゃないですか?たしかその子がMITSUさんとかも取り上げたんですよね。
それに結構ビビったんですよ。MITSUさんに気付けるのかって(笑)。

CHINO
ダンスシーンに限らず、日本はみんな一緒じゃないとっていう文化があるけど、やっぱり海外の人は自分の好きなものは好きって正直に言えるから凄いよね。

TAKUYA
正直当時はMITSUさんとか多くのBBOYにはウケてないですよね?本当にマニアックな人だけが引っかかるみたいな。

CHINO
そうだね。フットワーク遅っ!みたいなね(笑)。
ショーケースとかでもずっと使わないで、2エイトとかで一気に見せる「枯れた美学」な感じをMITSUにはしてもらってたかな。

TAKUYA
SARUさんって言っても若いダンサーは殆ど解からないですよね?
だけど個人的にはBBOYの日本の歴史の中で物凄い重要な人物だなと思うんです。
けど競技化されてからなのかSARUさんのようなセンシティブな人が目立ち辛くなったかもですね。バトルにしてもある意味途中で負けちゃいそうな人も重要でカッコいい人は多いですね。

CHINO
白黒ハッキリしてたり勝ってる奴の方がスポンサーも付きやすいしメディアにも取り上げられやすいよね。
けど、繊細でマニアックでセンスあるタイプの人達も認められないとね。
だから、CAKE-K、NAOYA君、SARUはこの業界に根付かせなきゃいけなかった人物なんだよね。これだけセンスがある奴らがなんで知られてないんだろうっていう。

ダンサーによるダンサーの為の先駆的ショップ

TAKUYA
1995年あたりに原宿にROCK STEADY CREW JAPANのショップありましたよね?それで商品棚にタイヤが付いていて裏が鏡になっていて、ショップ閉店後はスタジオになってレッスンとかやってたりしましたよね。
あれは誰のアイデアなんですか?

CHINO
それについてはCRAZY Aさんだね。
昼間オープン時に行くと床に靴の擦れ跡とか付いてたよね(笑)。

TAKUYA
当時作っていたあのカタカナのTシャツとか今の時代とかの方がウケそうですよね。
あと、PLAYBOYのサンプリングでRSCでうさぎを作って、PLAY BBOYって書いてあるのとか今見てもナイスなサンプリングですよね。

CHINO
デザインに関しては俺も含めて色んな人でやっていたよ。
とにかく色々やる事が早かったよね。早すぎたのかもしれない(笑)。

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