「子ども達が優勝ボードを持っておめでとうと言ってくれた。師CHERRYさんのイズムをバトルで示したい」/【FINALIST INTERVIEW DAI編】マイナビDANCE ALIVE HERO’S 2022 FINAL

 『アライブ』の名で親しまれ、今年で17年目を迎える「マイナビDANCE ALIVE HERO’S 2022 FINAL」。ストリートダンス界最強ヒーローを決めるダンスイベントとして、数多くのダンサーたちのドラマと才能を花開かせてきた。
 毎分毎秒が歴史の転換点となるこの日に向けて、多くの新世代ダンサー達が過酷な予選に挑戦し、ファイナル出場を勝ち獲った。令和ジェネレーションとも呼ぶべきファイナリストたちは、何を思いあの舞台へ上がるのか。

今回はCHARISMAX ⅣのALL STYLES SIDEに出場し、緻密なブガルースキルと追究されたクレイジーレッグス、時折空間ごと緩急で歪ませるようなインパクトと、遊びのある多彩な音どりで優勝を勝ち獲ったDAI(O.G.S / BIO / FunkSatisfaction)にインタビュー。

ご自身のダンススタイルのルーツを教えていただけますか?

ダンスを本格的に始めたのは18歳の頃です。最初は何も分からなかったので、ダンスの専門学校に行こうと思い上京しました。そこでは佐久間(The Spartanic Rockers)さん、GOTO(Sound Cream Steppers)さん、YANAGI(O.G.S)さんなどが講師をされていました。当時は「ダンスの専門学校は東京」というイメージで入りましたが、入学して半年で学校が倒産してしまいました(笑)。その後は別の専門学校が希望者を受け入れてくれて、東京で3年間ダンスを学びました。当時はHIPHOPをメインで踊っていました。その時期、六本木のクラブでスペシャルゲストにO.G.Sが来たことがありました。ショーを見に行ったらWILD CHERRYさん、TESTU-Gさん、MASAOさん、坂見誠二さんというメンバー。「なんだこのジャンルは!?めちゃめちゃかっこいいな」とくらってしまいました。その経験をしたあと、大阪の友人に電話をしてCHERRYさんを知っているか聞いたところ、姉と付き合ってる、と(笑)。大阪に帰るか迷っていた時期でしたし、接点が見つかったことがきっかけで、POPがしたくて21歳の頃に帰りました。CHERRYさんのところに習いに行ってそのままずっと学んでいました。

師匠であるWILD CHERRYさんとのエピソードなどあれば教えてください。

ある日突然「今日はディスコに行くぞ」と言われ大阪のSOUL FUCKTORYに連れて行ってもらいました。当時大阪では数少ないディスコでしたが、木曜日にいけばPOPPERがいる、火曜日はWAACKの人がいるなど曜日によって集まるダンサーのジャンルが決まっていて、今大御所と呼ばれているダンサーの方々がそこに沢山集まっていました。その時に紹介してもらった方々は今でも私生活でお兄ちゃんのような存在ですが、繋げてくれたのはCHERRYさんでした。また、夜中に呼び出されて、家に行くとYUKI(O.G.S)さんがいて、ビールを飲みながら気さくに話しかけてくれて仲良くなって、そんな時代でした。
CHERRYさんには人柄的にもダンス的な部分でも憧れていたんですが、CHERRYさんは教えながら僕のことを見てくれていたみたいで、「お前はYUKIみたいな脚やったらええねん。そういうスタイルでいった方がいいんちゃうか?」と言われたことがあります。当時は、師匠以外に習ってはいけないという暗黙のルールのようなものがあり、YUKIさんに直接習いにはいけませんでした。なのでここに出没する、という噂を信じてクラブに張り込み、YUKIさんがきた時には見て目に焼き付けて覚える、というスタイルで学んでいました。CHERRYさんの一番弟子になれた頃、面倒を見てくれ、と息子の渋美を紹介され、仲良くなっていきました。当時彼はアメリカに住んでいましたが、日本に来た時はずっと一緒にいました。いつの間にか弟みたいな感じになって、いつか父親と踊りたいと、渋美はよく語っていました。
ある日、CHERRYさんが亡くなりました。その日は渋美から連絡が来て、「お父さんが死んでしまった。」と言われ、すぐには信じられず、心にポッカリと穴が空いてしまった感覚でした。追悼式も、CHERRYさんの写真を見て泣き崩れてしまいました。人間こんなに泣けるんだ、と思えるくらい涙を流している姿に同い年のKEI(Co-thkoo)くんが「DAIちゃんしっかりせえ!」と励ましてくれたのを覚えています。当時の僕の夢は「ダンサーになりたい」でなく「CHERRYさんと一緒に踊りたい」でした。もう一緒に踊れない、夢が崩れた出来事だったんです。

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