【追悼】坂見誠二さんが「ダンスの神様」と呼ばれた本当の理由
「ダンスの神様」と呼ばれた坂見誠二さんが、先日お亡くなりになりました。
享年65歳、お子さんも生まれたばかりで、今年2月には熊本にダンススタジオをオープン、皆から惜しまれる、早すぎる死でした。
日本最強のストリートダンスクルー「Be Bop Crew」のメンバーであり、ブレイキン〜ロッキン〜ポッピンなどのストリートダンスを日本に紹介、メディアへの出演やアーティストの振り付け、国内外のダンサーとのコネクションなどなど、アンダーからメジャーまでストリートダンスの認知向上にこれほどまで貢献した人物はいないと思います。
例えば、いま皆さんが練習でやっている、リズムトレーニングの「アップ&ダウン」などの練習方法も、誠二さんとその仲間が、黒人のダンスのノリをわかりやすく分解・構築して考案したものなのです。
そう、誠二さんがいなかったら、ストリートダンスの発展は現在の形のようではなかった。それはハッキリと断言できます。
『ダンスク!』編集長である私も、かつての雑誌『ダンス・スタイル』編集長時代から、誠二さんにはお世話になりっぱなしでした。
今月初めの闘病支援のお知らせから、突然の訃報で今だに呆然としていますが、使命感をもってこの記事を書こうと思っています。
個人的な交友も含めて、坂見誠二さんがなぜ「ダンスの神様」と呼ばれるようになったか? その理由を振り返ってみようかと思います。
ダンスの生き証人
誠二さんのチーム「Be Bop Crew」が結成されたのは1982年なので、新しい黒人音楽文化が日本に入ってきた頃と重なります。
その頃のストリートダンスの輸入現場は、ディスコでした。
ディスコに遊びに来ていた米兵の黒人がさりげなく踊っているソウルステップを真似したり、盗み見たり、まさに見様見真似で、誠二さんたちは当時ダンスを覚えていったそうです。
当然、ダンスを教えてくれるスタジオも映像も何もない時代、ダンスは「本物」から「生」で覚えていくものでした。
そして当時のディスコは、人との交流の喜びと笑顔と音楽に包まれた空間でした。
みんな根っからの遊び好き。騒ぐのが好きならパーティーを作り、レコードマニアはDJになり、しゃべれる奴はMCになり、体を動かしたい奴はみんなで踊る。
そこで、誠二さんたちはダンスで目立ち、技術を磨き、拍手を集め、気づいたらダンサーと呼ばれる存在になっていました。
