ダンス新時代 〜職業「プロダンサー」として生きる〜 KADOKAWA DREAMS「KEITA TANAKA」

4年目を迎えた世界最高峰のプロダンスリーグ「第一生命 D.LEAGUE」。その中で活躍するDリーガー達の激闘の日々や苦悩、そして思考や価値観に迫る“ダンス新時代〜職業「プロダンサー」として生きる〜”をDewsが独占取材。D.LEAGUE 23-24シーズンを駆け抜ける全13チーム26名にフォーカスします。今回はHIPHOPシーンを第一線で牽引しながら、アーティストのサポートダンサーという華やかな経歴を経てD.LEAGUEに電撃参戦したKEITA TANAKA氏に迫る。

長いダンスのキャリアの中で、下積みのような時代があれば教えてください。

今から25年前、1999年頃、2000年代に入りファッションやダンスが一気に変わる直前の時期でした。変わる前のダンスの世界はいわゆるミドルスクールがほぼ全てでした。1992と刺繍されたPOLOに身を包み、DJ Premierなんかのサンプリング音楽に合わせ、ニュージャックスウィングを少し進化させたようなステップを踏むのが主流であり王道の時代でした。

自分は20歳からBASE HEADSというチームで活動を始めましたが、上に上に行きたかったため、人と違うものを探していました。今のようにSNSもなく、情報を得るのが難しい時代です。僕らが通っていたレコード屋さんが、週1で海外の音楽番組のVHSやHOT97というラジオ番組を収録したものを入荷していました。新しいもの好きの、感度の高いDJやラッパー、ダンサー達が食い付いて(チェックしていたら)、海外のメインストリームの音楽が変わってきている。ファッションも含め、日本の諸先輩方と違うものが主流になってきているぞ、と気づいたんです。アーティストで言うとTimbaland、N.E.R.D、ミッシーエリオットやAaliyahなど変則的なビートの楽曲が盛り上がりを見せていました。

また、その頃渋谷のCLUB HARLEMが最も熱かった頃でした。DJたちが基本は王道をかけている中、毎週火曜日のレギュラーパーティ『RED ZONE』だけは違いました。DJ KOYAさんとDJ KANGOさんが回す日本で唯一新譜がかかる日で、多くの新しいもの好きのラッパーやダンサー、DJが集まって、あれはなんだこれはなんだ、と情報交換をしていました。

新しい変則ビートの音楽と、GOLDのチェーンや、XXXLの服で踊るスタイルをいち早く取り入れていたものの、チームを組んで2〜3年は誰にも注目されませんでした。毛色が違いすぎてメジャーなダンスイベントには出してもらえませんでした。イベントオーガナイザの方にお手紙を書いたり、ラジオ局やダンス雑誌の編集部に自分たちのVHSを手渡したりしても注目してもらえず、箸にも棒にもかからない時期が続きました。

2001〜2年頃、日本の音楽業界にも変則ビートの波が来て、その第1弾アーティストがMISIAでした。その頃MISIAのサポートダンサーといえばSTEZOさんをはじめ、U-GEさん、HyROSSIさんとダンス界のスター揃いでした。『チキチキ系』と呼ばれる変則ビートを取り入れた”BACK BLOCKS”という新曲に振り付けができるダンサーがいない、誰かいないか、と言うことで僕に白羽の矢が立ちました。友達経由でSTEZOさんから依頼され、やらせて下さい!と返事をしました。

当時はレンタルできるスタジオもなく、溝の口駅のストリートで振り付けを作りました。苦労しながら作った振り付けを気に入っていただけたのか、全国ツアーを一緒に回らないかとお声がけいただき、僕のスターダムへの道が一気に始まりました。誰にも見つけてもらえなかった自分という小さな存在を、STEZOさんをはじめ、MISIAやそのプロダクションが見出してくれて今があります。それから名だたるアーティストのバックアップダンサーやオーバーグラウンドと呼ばれる業界に関わらせていただきました。それが自分の第1期ですね。

その頃はダンサーとして食べていくといったビジョンはあったのでしょうか?

チームを組むまではインストラクターなどの経験もなく、ダンスでお金をもらった経験はありませんでした。むしろイベント出演のチケットノルマのためにバイトをしてお金をずっと支払っていました。プロダンサーになるというビジョンや発想もなかったです。ただ、父親が会社を経営していたため、影響を受けてマネジメントという仕事には興味があって、大学の経営学部に通っていました。小さな頃から自分がマネジメント、運営や経営をするならどうするか、PRにどんなアーティストを使うか、そんな妄想ばかりしていました。

人生の転換期として、DREAMS COME TRUE(以下 ドリカム)というアーティストとの出会いがありました。これが僕の第2期ですね。それまでは仕事として何をやるにしてもストリート色が強かったんですが、ドリカムは国民的アーティスト。ストリートのトガったものとは相性が良くないと思っていました。

しかし、ドリカムはマイケルジャクソンのライブを手がけたケニー・オルテガが演出を手がけていたり、マドンナの振り付けを手がけたジェイミー・キングを振付においたりと、ストリートとのシナジーがあり、ブラックカルチャーに本当に理解のあるアーティストでした。

それでも、ドリカムのアウトプットはポップスなんです。僕も、自分のルーツをストリートに置きながらも、いかにアウトプットが多くの人に届くか、要するにポップスに変えてみたいな、と考えるようになりました。”わかってる人にだけ伝わればいいや”から”より多くの人に伝えたい”に変わったタイミングがドリカムとの出会いでした。

2005年からD.LEAGUEに参画する直前まで、14年間携わり、様々なことを学びました。ダンサーの社会的地位を少しでも上げたいからと、ドリカムはダンサーを必ずパフォーマーと呼びます。(社会的な地位を上げるために)ギャランティーをもらわず仕事をしてはいけないなど、色んなことをあの二人から教わりましたね。

D.LEAGUEのディレクターに就任した経緯や、当時の想いを教えてください。

カンタローさんがやっていたダンスアライブなどのバトル文化やコンテスト文化と対極のフィールドにいました。バトル文化のダンサーは順位で自分を表現して、見た目もそれこそDYM MESSENGERSとValuence INFINITIES のようなスモーキーでアンダーグラウンドなイメージでした。

僕らはバチバチにエンターテイメントをやりたかったんです。INGな人たちと一緒にファッションを含め何でもかんでも作っていく。お金になるしモテるし、目立ちたい!といった不純なスタンスですよね(笑)。それに対して純粋にダンサーがカルチャーを大切に競って切磋琢磨しているイメージがダンスアライブなどのコンテストやバトルの文化。活動する拠点も違えば、僕らが色濃く関わっていたのはラッパーやDJ。接点が全くありませんでした。D.LEAGUEができると聞いても、新しいダンスのフォーマットが違う畑にできたんだな、くらいの認識でした。

月日が経って、開幕が迫る8月か9月に、カンタローさんからDMが来ました。お話ししたいことがある、と連絡が来て、よし!これはきっとジャッジのオファーだ!と思いギャラ交渉について妄想して出向きました(笑)。

そしたら「とある企業がチームを立ち上げたがっています。時間のない中なのですが、ディレクターの候補として名前が上がっています。一度面談してみるのはどうですか?」という話でした。
自分がチームを持つとか、コンテスト形式のものに参入するというイメージが全くなかったため、一度持ち帰らせて欲しいと伝えました。

D.LEAGUEは素晴らしい企画だけれど、自分が力になれるかどうかは別です。今も運営側でKADOKAWAを支えてくれているアドバイザーのようなメンバーに相談したところ、KEITAが受けなかったら現在進行形のダンスを伝えるチームが足りないよ、絶対やるべきだ、と言われ、やることを決意しました。

面談にあたって決心がついたので、資料をすぐ作りました。株式会社KADOKAWA(以下KADOKAWA社)のルーツと僕のルーツを掛け合わせた新しいものにしたい。KADOKAWA社のコーポレートキャラクターは鳳凰、大きな翼のある伝説の生き物です。コーポレートカラーは青。そこに溢れんばかりの情熱を表す赤。そうした情熱は大きな夢、モチベーションからくるものです。自分のルーツにもなるドリカムにもあやかり、チーム名やロゴを勝手に用意しました。それからチームのテーマ、メンバーの選定方法、こんな規模感にしたいという僕のビジョンをまとめて企画書にしてKADOKAWA社に出向きました。

「KADOKAWA DREAMSのSには意味があって”皆”の夢を意味するSです。チームの夢だけではなく、これから10年後20年後の子供達の夢になるSなんです!」そんなプレゼンテーションをしました。

参画が決まった後のスケジュールはタイトでした。HIPHOPという同じフィールドで(avex ROYALBRATS初代ディレクターの)世界のRIEHATAがいて、きっと比べられるだろうから、いい人材を集めたい。けどいない訳です。

名だたるダンサーはすでに他のチームへ所属し、1年目は様子見で距離を置いているダンサーもいます。セレクションという名前で、多分D.LEAGUE初のオーディションを行なって、メンバーを選出しました。北は北海道から南は九州まで。高校生も含めた素人の集まり、といった形でKADOKAWA DREAMSは始動しました。

開幕までの2ヶ月の間、考えることは膨大で、12m×6mのステージと同じ広さが使える練習場所探し、作品の作詞作曲、アートワーク、権利の分配。権利がわからないため権利についての勉強をし、それを踏まえて作品を作って、衣装探しや衣装制作の方、ヘアメイクさんの確保。死に物狂いで発進させようと駆け回りました。

そうしてD.LEAGUE(運営)も勝手がわからない中、無観客で開幕戦が行われました。MIYAVIさんやEXILE SHOKICHI×CrazyBoyさんなどのライブもあり、煌びやかなスタートです。初戦のためディレクター席は、得体の知れないD.LEAGUEへの参画という不安と期待が渦巻いている。もちろんダンスに点数はつくのですが、全チームに全チームのディレクターが拍手する、ここまで辿り着いたことをお互いに讃えあう、そんな雰囲気だった記憶があります。

KADOKAWA DREAMSのディレクターになり、変化したことはありましたか?

D.LEAGUEという評価され勝敗がつき、必ず賛否が出る場に出たわけです。今までは、自分たちの好きな事をやって賛否なんて気にしなくてもよかった。これからはKADOKAWA DREAMSという当時13名の選手の責任と、KADOKAWA社という会社を背負って勝敗がつけられる。

負けると当然(ネガティブな)声が上がるじゃないですか。僕は心が強い方ではないので、そんな声にきっとやられてしまう。そのため、KEITAという名前でなくKEITA TANAKAと名前を変えて、カラーコンタクトとスーツで、新しい別のキャラクター設定をしていったんです。

失敗したのはKEITAじゃなくKEITA TANAKA。そうやって逃げ道を作ることで大胆に賛否を恐れずにやっていけるようにしました。

振り返ると幼稚に感じますが、コメントでいいこと言ってやろうと思っていました。本心じゃなかったんです。前日の夜、お風呂に浸かりながら、頭がよく見えそうなセリフや作戦がうまくいっているように見えるコメントを自分の中で考えていました。今見返してみると、作り上げたキャラはギクシャクしているなと思います。カラコンの値段もかさむし、目は痛いしで初年度でやめました(笑)。

2年目はハートの部分も出来上がってきて、素になってもいいかなと思えた。素になった自分は人に任せることをよしとするため、3年目は人に任せてもいいと思えるようになりました。
そして今シーズンである4年目は距離を置く。5年目はD.LEAGUEから離れるかもしれません(笑)。

何かを続けていこうと思ったら替えが効かないとダメだと思っています。アーティストは替えが効かない人じゃないとなれない、とよく言われますが、それは職人の世界の話です。僕らがこの先10年20年D.LEAGUEを続けていくとなると、僕の替わりになる人がいないと、10年20年と続いていかないと思うんです。だから代わりになれるシステムを作る。誰がやってもできる、ある程度再現可能なものにしておく。というのが昨シーズンからの自分の中でのテーマでした。

どんどん役職を分担して、踊りを作るのも衣装作りも自分の手から切り離して、楽曲はまだ携わっていますが、運営やビジネスもなんとか切り離して、自分はビジョンだけ作ることに専念するようにしています。ビジョンの作り方も、メンバーにこういう風にするんだよ、となんとなく教え込んで、小さなビジネスの場を設けて実践させたりしています。(なので)いつ死んでもいいんです、魂は引き継がれますから。

ディレクターとして活動していく中で1番大事にしてきたことは何ですか?

「勝ち負けにこだわる」!。勝ち負けにこだわらないならD.LEAGUEというフォーマットに来ないほうがいい。勝ち負けにこだわらなければもっと別のところに素敵なステージが沢山あります。勝ち負けにこだわるからこそ、カンタローさんをはじめ、そこに心血を注いできたスタッフの方々がいるんです。なので勝ち負けにこだわらないという発言は絶対にしない。これは一貫しています。メンバーにもトータル3000時間くらい伝えていると思います(笑)。

D.LEAGUEは勝つか負けるかの2択です。誰が見るかといえば審査員とオーディエンス。その人たちがどう思うか分析し、こういうものが刺さりやすい、とどのチームもやると思います。プラス”自分たちがやりたいこと”のバランスがあり、それを叶えられるメンバーを選定しています。試合に出ないサポートチームが20人ほどいるのですがその20人が後押ししないとメンバーはもっと上に上がらないんです。8人を選出して、サポートメンバーが皆が推せる、と心から思えるか、総合的に判断しています。

KADOKAWA DREAMSのチームとしての一番の強みは、多様性でもなく若さでもない。他のチームと比較しづらいんですが、ディレクター、運営、メンバーとの信頼関係だと思っています。だからこそ無理を言える、だからこそストイックになれる。

無茶もできるし、不可能を可能にする。ビジネスも回せる。KADOKAWA社からも信頼して資金を投入してもらえる。僕らに一番あるものは”信頼”ですかね。

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