ダンス部「表現」の時代へ〜帝塚山、樟蔭、日大明誠、関西大倉

ダンスク!より転載)


ダンスの「表現」とは?

ここ10年でダンス部の作品は大きく変わった。

10年前、公立中学校へのダンス必修化が話題になっていた時代の高校ダンス部のレベル自体は正直、当時のキッズダンサーたちにも劣っていたように思う。そういうキッズたちは当時、高校生になってもダンス部に入らなかったし、ダンス部出身のプロダンサーというキャリアもそう多くはなかった。
が、年を重ねるごとにダンススタジアムに出場する学校の数は増え、作品のレベルは上がり、ジャンルもスタイルも多彩に。ダンス部大会は年々増えていき、世間やメディアの注目も集まり始める。

そして2017年、大阪府立登美丘高校のバブリーダンスのブレイクで「高校ダンス部」の認知は一気に広まる。さらに、創作ダンス出身のダンス部がストリート系大会に流れ込むことで、異ジャンル競争の様相が高まり、全体の技術レベル・作品レベルはさらに上がっていった。
中には、コンテンポラリーとストリートを掛け合わせた異種配合のようなチームも台頭。そんな状況の中、大会で勝ち抜くために求められてくるのが、プロ顔負けの技術レベルなり、構成力なり、演出なり、独自性なり、芸術性。より高い「表現」のチカラだ

皆さんの部活動でも「何を表現したいのか?」なんて話し合いはあるだろう。ダンス、特にストリートダンスは、言ってしまえば定型のステップや動きの組み合わせだ。奇抜な動きやオリジナリティというのは、なかなか受け入れられないし、高校生のレベルで仕上げられるものではない。日々の練習で基礎の動きを修練し、確実にモノにし、それらをどう組み合わせ、あるいはアレンジして、組み合わせを工夫していく。そんな形(かた)の集合体であるダンスに、「自分たち」というアイデンティティを持たせるために、あるいは作品のイメージを共有する旗印として「表現」というキーワードはあるのではないだろうか。

言い換えれば、それはテーマ。自分たちのダンスを何処に向かわせるのか? たとえば、友情がテーマ、愛がテーマ、反戦がテーマ…などなど。とはいえ、それは強いメッセージやストーリーである必要はない。黒人のようにファンキーに踊る、ブレイキンで大技を決める。これもテーマであり、作品にある「表現」と言える。要は、何がやりたいかが見えてくる、強く伝わってくるダンスが「表現」なのだ。

しかし最近のダンス部作品には、特にコロナ禍を経て、その表現が一見わかりにくいものが増えているように思う。見たことがあるようで初めて見るような感覚、踊り手と観客の間にある不思議な距離感、安定と逸脱をスピーディに切り替えていく構成などなど。確実に伝わってくる「表現」の熱量はあるものの、フワフワと抽象的な手触りで、つかみどころがなく、しかしながら強く感性を揺さぶる力が。これが高校ダンス部員たちが初めて触れる「芸術」なんじゃないだろうか。
 

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